山本 竹渓 やまもと ちっけい
   

雨後青苔路不分
柴門竹裏映斜曛
松花落盡無人到
只有山董掃白雲
雨後の青苔 路 分けず
柴門竹裏 斜曛(=黄昏)を映ず
松花落尽 人到る無し
只有り 山 董(ただ)して 白雲を掃う
39.5p×145p

安政3年3月3日(1856年4月7日)生〜昭和22年(1947年)11月12日歿
 豊後国臼杵藩(現在の大分県臼杵市)の藩士・山本確の次男として生まれる。名は達雄、竹渓と号した。
 藩の学古館で学び文武に秀で13歳で宗家の養嗣子となるが、実家・養家ともに貧しく、内職で家計を支えた。19歳で大阪に出て、大阪慶應義塾に学び、3年後には東京に出て慶應義塾(現・慶應義塾大学)、明治義塾(三菱商業学校)で学ぶが、学資が続かずにしばしば学業を中断せざるを得なかった。
 卒業後、岡山商法講習所の教頭などを経て入社した郵便汽船三菱会社で川田小一郎(当時、三菱会社最高幹部、後の第3代日銀総裁)の知遇を得て日本銀行に転じた。営業局長として日清戦争中の国債公募を成功させたほか、明治29年にロンドンに派遣され、日本が金本位制に移行する際の基盤ともなった清国からの賠償金の運用を監督するという重責を担った。
 明治31年に43歳の若さで第5代日本銀行総裁に就任してからは、急速な産業の近代化に伴う恒常的な輸入超過によって正貨準備が不足することを防ぐため、金融を引き締めて国内需要の抑制を図る一方、当時、政府による日銀借り入れが累増傾向にあったことに対し、兌換制度の維持や民間の金融逼迫の回避といった観点から対政府融資額に上限を定めるよう主張するなど、毅然とした態度で金融政策を運営したことが知られている。
 明治36年に総裁を辞任した後、政界に転じて貴族院議員、日本勧業銀行総裁、大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣・立憲民政党の最高顧問を歴任した。位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。
 東洋史学者の山本達郎は、彼の養嗣子である。
 「竹溪達書」の下に、白文の「山本達雄」、朱文の「竹溪」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://www.boj.or.jp/about/outline/history/pre_gov/sousai05.htm/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E9%81%94%E9%9B%84_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)
http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-1245.html
http://www.morikinseki.com/chousa/h1706.htm


参考文献一覧      HOME